
個人が山頂に標識を残していくことは、はたしてどういう意味をもつのか。山頂標識について改めて考えをまとめてみることにしました。まずは色々な標識を見てみましょう。




以上の例に共通するのは、「自己顕示欲」ではないでしょうか。誰かのために標識を置くのではなく、「自分が登った証」を山頂に残しておきたい、それを見て欲しい、という意図を強く感じます。だからこそ、すでに標識があるところに同じものを置いてくるし、自分の名前や、会社の名前や、はたまた自作の和歌などが刻み込まれているわけです。そういったものは標識本来の役目(わかりやすい案内を行うこと)を考えると不必要なものに他なりません。
さらに、自己顕示的な標識でなくとも問題は残ります。山頂に標識など不必要と考える登山者も多いはずだからです。特に冬山好きの人ならそういう傾向が強いのではないでしょうか。登山道が整備されている夏山ならともかく、冬山は自分自身でルートを探し、山頂を確認するのが楽しみの一つなのです。初めて山頂に標識を残して来た人は、自分だけがその楽しみを享受し、後から来る人の楽しみを奪っていることに気がついているのでしょうか。
また、人の気配のなさや自然の中での静けさを楽しみたい登山者にとっても、これ見よがしに山頂に残された人工物は邪魔な存在になり得ます。
だいたい、登山する全ての人が山頂に標識を設置したなら、いったいどういうことになるのか。二つ三つあっても見苦しい標識が千万の単位で残されることになるのは少し考えればわかることです。山頂に標識を残す人たちは、「自分だけは特別」という思いがなかったかどうか、我と我が身を振り返ってみる必要があるでしょう。

自己顕示的な標識はもうまっぴらです。
3 件のコメント:
群馬には、名前のない山に勝手に命名し、頂上の木にその山名プレートを打ち付けておいて、あとでその山名がネット上に出てくると、雑誌にその山を「○○○山と言うそうです。」と投稿し、自分で命名した山名を広めようとしている人がいるようです。
http://shinhai.net/keijiban/?cpage=5#comment-16014
そんな人もいるのですね。
他人のためにするというならまだしも、自分のことしか考えていない行為ですよね。
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