最初に断言しておきましょう。個人が山頂に標識を残していくという行為にについて、私は否定的です。
どうしていきなりそんなことを言い出したかと言うと、昨日登った上忠別山で、たまたま行き会ったグループの方が、山頂の木に標識をくくりつけているのを目の当たりにしたからです。今までも個人が作って置いていったと思しき標識を色々見てきましたが、ちょうど置いていく場面に遭遇したのは初めてのことでした。何度となく登った山頂に、今まで標識が無かった山頂に、標識がつけられる瞬間を見て、私は軽く衝撃を受けてしまいました。
個人が山頂に標識を残していくことは、はたしてどういう意味をもつのか。山頂標識について改めて考えをまとめてみることにしました。まずは色々な標識を見てみましょう。
三国山山頂に置かれた標識。 何故か同じものが二つあります。一つは山岳会の名前が入っていました。どちらが先に置かれたものかはわかりませんが、すでに標識があるところにさらに同じものを置いてくるというのは、いったいどういう意図があるのでしょう。
こちらはチトカニウシ山頂に置かれていたもの。チトカニウシ山は、三国山とは違い夏道のない山です。この標識には札幌のガイド会社の名前が書かれていました。
この小さい木板は、幌尻岳の山頂標識にくくりつけられていたもの。書かれていた内容は、山名だけでなく、これを作った方の氏名・住所・登頂年月日でした。
こちらは非常に凝っている山頂標識で、扇沼山に置かれていました。裏面にはなんと、扇沼山を詠んだ和歌が書かれています。
以上の例に共通するのは、「自己顕示欲」ではないでしょうか。誰かのために標識を置くのではなく、「自分が登った証」を山頂に残しておきたい、それを見て欲しい、という意図を強く感じます。だからこそ、すでに標識があるところに同じものを置いてくるし、自分の名前や、会社の名前や、はたまた自作の和歌などが刻み込まれているわけです。そういったものは標識本来の役目(わかりやすい案内を行うこと)を考えると不必要なものに他なりません。
さらに、自己顕示的な標識でなくとも問題は残ります。山頂に標識など不必要と考える登山者も多いはずだからです。特に冬山好きの人ならそういう傾向が強いのではないでしょうか。登山道が整備されている夏山ならともかく、冬山は自分自身でルートを探し、山頂を確認するのが楽しみの一つなのです。初めて山頂に標識を残して来た人は、自分だけがその楽しみを享受し、後から来る人の楽しみを奪っていることに気がついているのでしょうか。
また、人の気配のなさや自然の中での静けさを楽しみたい登山者にとっても、これ見よがしに山頂に残された人工物は邪魔な存在になり得ます。
だいたい、登山する全ての人が山頂に標識を設置したなら、いったいどういうことになるのか。二つ三つあっても見苦しい標識が千万の単位で残されることになるのは少し考えればわかることです。山頂に標識を残す人たちは、「自分だけは特別」という思いがなかったかどうか、我と我が身を振り返ってみる必要があるでしょう。
他人のためにならず、ただ自己顕示のためだけに置かれる山頂標識など、自然を楽しむべき山ではまったく必要のないものです。もし、どうしても標識がなければ寂しいというのなら、こういう簡易標識を持っていき、そして持ち帰ってくるのが思慮深い登山者のありかたではないでしょうか。
自己顕示的な標識はもうまっぴらです。
3 件のコメント:
群馬には、名前のない山に勝手に命名し、頂上の木にその山名プレートを打ち付けておいて、あとでその山名がネット上に出てくると、雑誌にその山を「○○○山と言うそうです。」と投稿し、自分で命名した山名を広めようとしている人がいるようです。
http://shinhai.net/keijiban/?cpage=5#comment-16014
そんな人もいるのですね。
他人のためにするというならまだしも、自分のことしか考えていない行為ですよね。
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